アラビカコーヒーの伝播史(2)

 前回は、アラビカコーヒーの二大源流の一つ、ティピカ種の歴史をご紹介しました。今回は、もう一つの源流であるブルボン種の歴史です。「ティピカ」は「典型的な」という意味の名前ですが、「ブルボン」はなんと島の名前でした。

 記録によると、フランス人は1708年・1715年・1718年の三度、コーヒーをイエメンからブルボン島(現在のレユニオン島)に導入しようと試みており、最近の遺伝子研究もこのことを裏付けています。ただ、このうち成功したのは二度目のごく少数および三度目の幾らかの木だけでした。19世紀の半ばまで、ブルボン島のコーヒーが島外に出ることはありませんでした。

 アフリカへのブルボン種の普及には、(精霊修道会の)スピリタンスとして知られるフランス人宣教師たちが大きな役割を果たしました。1841年に、最初の伝道団がレユニオン島で結成されました。続いて1859年にはザンジバル島で、1862年にはバガモヨ(タンザニア沿岸部の町・当時の呼称はタンガニーカ)とセントアウグスティン(ケニア・キクユにある町)で、さらに1893年にはブラ(ケニア・タイタヒルズにある町)に伝導団が結成されました。そのそれぞれにおいて、レユニオン島で収穫されたコーヒーの種子が植えられました。

 セントアウグスティンの苗木はケニアの高地で広範囲に植えられた一方、バガモヨの苗木はタンザニア側のキリマンジャロ地域にいくつかのプランテーションを設立するのに用いられました。早くも1930年には、タンザニア・モシ近郊のリャムンゴにある研究施設が、バガモヨ産の種子が植えられたプランテーションのすぐそばで発見された、並外れて優れた母樹の「集団選択」に基づく、公式なコーヒー繁殖プロジェクトを開始しました(「集団選択」は「マッサル・セレクション」とも呼ばれ、優れた特性を持つ個体群を選抜し、それらから得られた種子を集めて次世代の個体を育てるプロセスを繰り返すことです)。この研究施設は、現在のタンザニアコーヒー研究所(TaCRI)中央研究施設の母体です。

 ブラからの苗木は、1899年にセントオースティン(ナイロビ近郊)にある別の伝教団に届けられ、そこから得られた種子がコーヒー栽培を希望する住民に配られました。これがいわゆる「フレンチ・ミッション」コーヒーの起源です。

 最近のDNA指紋鑑定によって、CoorgやKentとして知られる古いインドの品種は、ブルボン種の子孫として位置付けられることが示されています。このことは、1670年にババ・ブーダン(訳註:17世紀インドのスーフィー(イスラム神秘主義者))によって、イエメンからインドに持ち出された最初の種子には、おそらくブルボン種系統とティピカ種系統の両方が含まれていたことを示しています。さらにこのことは、オランダが1696年と1699年に(よく言われるようにイエメンからではなく)インドから種子を持ち運んだ際に、ティピカ種の系統がブルボン種から分離したことを意味していると思われます。

 ブルボン種は1860年に初めてアメリカ大陸(ブラジル南部のカンピーナス近く)に導入されました。そしてそこから北上して中米諸国へと広まっていきました。

https://varieties.worldcoffeeresearch.org/arabica-2/history-of-arabica
baisado
京都下鴨の小さな珈琲焙煎所

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